徒然だより

2019年10月09日(水)  09:00

9月23日 秋のお彼岸法要

 

9月23日に因念寺にて、秋のお彼岸法要が勤修されました。

 

 

 

みなさんと阿弥陀経(訓読)のお勤めの後、当山住職より「無用の用」と言うテーマでご法話がありました。IMG_0445.JPG

 

住職の恩師である、山崎先生の23回忌を偲びつつ、山崎先生の口癖であった「無用の用」から、浄土真宗の『他力の救い』について紐解いていく内容でした。

 

「無用の用」とは、老子の言葉で、『一見、実用性のないものであっても実は重要なはたらきをなしていて、必要なものである』という意味なのです。

 

無用の用とは、つまり、何一つとして欠けるものはないということでしょう。

 

 

 

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無用の用という切り口から、トリプルミリオンを達成した「世界に一つだけの花」という歌詞の話、そして「阿弥陀経」の『青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光』を味わいました。無用の用は私たちのこの世界からみる言葉ではありますが、仏様は私たち一人一人のこの命が、かけがえのない命であるといつでもどこでもどんなときでもみていてくださっておるんだと感じさせて頂くありがたい法縁でした。

「住職の話がわかりやすく、もっとお聞きしたいくらいでした」とのお声もいただきました。嬉しい限りです。

 

 

次回の法要は、報恩講(12月1日15:00~)です。よかったら少し仏教の話に耳を傾けてみませんか?

 

先日、龍谷大学において私の恩師でありました山崎慶輝先生の23回忌法要の案内が届きました。私はこの先生の研究室で育てられて専任教員とならせて戴いたので大変にご恩のある先生です。そこで今回は生前の先生を偲ばせて戴きたいと思います。

 

 先生が絶えず私たち学生に対して口にしておられた格言を思い浮かべます。それは「無用の用」という老子の言葉です。一見、不必要と思われるものも必要性があるという意味です。先生は川を渡る橋を例に解説くださいました。実際に川を渡るには自分の足をおいている箇所だけが必要であって、その他の部分は必要ではありません。ところがもし足の置く場所以外のところをそぎ取って必要な部分だけを川の水面上にうずたかく積み上げたのが橋であったとすればどうでしょう。これでは恐ろしくて渡ることができません。このように一見、不必要なものでも、大いに必要なことがわかるだろうと申されるのです。だから仏教学という自分の専門分野だけ研究するのでは無く、幅広く様々な面に関心を持って研究してこそ自らの研究が大成する、というお諭しでした。

 

 いま私はこの格言を「お念仏」にあてはめて考えればどうだろうかと思います。私たち真宗徒がよく口にする言葉に「自力はだめだ」とか「自力は必要ない」とすぐに「自力無効」を訴えます。「無用の用」を味わったときに、本当に自力は必要が無いのでしょうか。自力があっての他力では無いかと思います。要するに「自力がなければ他力の素晴らしさがわからない」でしょうし、もっと言えば「自力の究極こそが他力」といえるのではないかと思います。ここでいう自力を私は今回、禅宗に焦点を絞ってお話ししたいと思います。

 

 私たちが禅宗と聞きますとすぐに思い出す方が「一休さん」と「良寛さん」です。いずれも禅の研鑽には長年を費やし、命をかけた修行をされ、心境豊かな境地に到達された方たちです。

 

その一休さんに

 

        九年まで座禅すること無益なれ

 

                まことの時は 弥陀の一声

 

という句があります。達磨大師は9年間面壁で座禅されたといわれています。

 

        桃栗三年 柿八年

 

                達磨は九年 われ一生

 

 という武者小路実篤の句も思い出されます。その禅宗の祖師の面壁九年の座禅を無益と一蹴し、「まことの時は 弥陀の一声」と喝破されたのです。「まことの時」とは自分が救われるその時でしょう。最後の最後には長年の座禅で得た利益ではなく、お念仏一つで助けられますという意味に受け止められましょう。自力の究極が念仏であった一例といえないでしょうか。このように考えますと、逆に一休さんにとって念仏への道のりが座禅であったわけで、長年の座禅こそ大いに必要であったのです。これも「無用の用」といえましょう。

 

 また良寛さんには

 

         良寛に辞世あるかと人問はば

 

                 南無阿弥陀仏というと答えよ

 

があります。やはり禅の究極はお念仏であったという事でしょう。

 

 このように「無用の用」という老子の言葉から考えられることは、宗教的にも道徳的にも否定できるものは何も無いというのでは無いかと思います。まさに老子のいう「そのまま」であって「無為」とはこれをいうのであろうと思われます。

 

 

お盆も終わり、まだまだ暑さが残るものの、少しずつ秋の風が吹いて来ているように感じます。

 

さて、2019(令和元)年9月23日(月・祝)は15:00より秋のお彼岸法要のお勤めがあります。

 

彼岸とは、仏様のおさとりの世界(お浄土)のことを言います。

 

お彼岸の法要は、阿弥陀様のお浄土の世界、また阿弥陀様のお心をお聞かせ戴く時間であります。

 

15:00からの勤行のあと、当山住職より1時間程度の法話があります。

 

暑さ寒さも彼岸まで。

 

みなさま、お誘い合わせの上、どうぞお参り下さいませ。

 

沢山のご来寺を心よりお待ち申しあげます。

 

2019年08月22日(木)  14:50

8月14日 盂蘭盆会法要

 

暑さも続く中、8月14日に因念寺では盂蘭盆会(うらぼんえ)法要が行われました。

沢山の方々がお参りくださり、本堂は満堂でした。

阿弥陀経(訓読)のお勤めのあと、住職より「真実の仏教と方便の仏教」というテーマで法話がありました。

「なぜ浄土真宗ではお守りやお札を持たないのか」と言うことを切り口に、方便の仏教、真実の仏教とはどのようなものであるかということのお話でした。

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法話の後はお炊きあげ。

讃佛偈野お勤めの中、みなさんで白木の位牌やお札・お守りを一緒に炊きあげました。

 

 

 

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暑さが増している今日この頃、みなさまお変わりなくお過ごしでしょうか。

 

さて、来る814日(水)午後3時より因念寺本堂にて盂蘭盆会(お盆)法要をお勤めいたします。

 

一般社会では「お盆」と言えばお寺の専属行事のように感じられますが、浄土真宗では特に重要視する行事ではありません。

 

疑問に思われる方は是非法要にお越し戴いて住職の話を聞いてください。午後4時から5時までが法話です。

 

   法話「真実の仏教と方便の仏教」     本願寺派勧学・龍谷大学名誉教授・因念寺住職 淺田惠真

 

ご門徒の皆さんのお宅に「お守り札」はありませんか。あるいは「魔除け札」や「鬼門よけの札」など、

 

また「不幸の手紙」など来て困っていませんか。これら併せて、皆さんと一緒に「お炊きあげ」(焼却)します。

 

これらのお守りを必要とするのが方便の仏教です。真実の教えはこれらの「お札」を必要とはしません。

 

「不幸の手紙」に類するものも同じ事です。それらに左右されてはいけません。

 

この機会にぜひ、本当の正しい仏教の教えに触れてみてはいかがでしょうか。

 

お賽銭程度の「おこころざし」(お布施)と共に当日持参ください。  

 

どなたでも結構ですから、どうぞお参りください。

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