~徒然だより~「お知らせ」
9月23日(月)因念寺秋季彼岸会法話 「無用の用」
先日、龍谷大学において私の恩師でありました山崎慶輝先生の23回忌法要の案内が届きました。私はこの先生の研究室で育てられて専任教員とならせて戴いたので大変にご恩のある先生です。そこで今回は生前の先生を偲ばせて戴きたいと思います。
先生が絶えず私たち学生に対して口にしておられた格言を思い浮かべます。それは「無用の用」という老子の言葉です。一見、不必要と思われるものも必要性があるという意味です。先生は川を渡る橋を例に解説くださいました。実際に川を渡るには自分の足をおいている箇所だけが必要であって、その他の部分は必要ではありません。ところがもし足の置く場所以外のところをそぎ取って必要な部分だけを川の水面上にうずたかく積み上げたのが橋であったとすればどうでしょう。これでは恐ろしくて渡ることができません。このように一見、不必要なものでも、大いに必要なことがわかるだろうと申されるのです。だから仏教学という自分の専門分野だけ研究するのでは無く、幅広く様々な面に関心を持って研究してこそ自らの研究が大成する、というお諭しでした。
いま私はこの格言を「お念仏」にあてはめて考えればどうだろうかと思います。私たち真宗徒がよく口にする言葉に「自力はだめだ」とか「自力は必要ない」とすぐに「自力無効」を訴えます。「無用の用」を味わったときに、本当に自力は必要が無いのでしょうか。自力があっての他力では無いかと思います。要するに「自力がなければ他力の素晴らしさがわからない」でしょうし、もっと言えば「自力の究極こそが他力」といえるのではないかと思います。ここでいう自力を私は今回、禅宗に焦点を絞ってお話ししたいと思います。
私たちが禅宗と聞きますとすぐに思い出す方が「一休さん」と「良寛さん」です。いずれも禅の研鑽には長年を費やし、命をかけた修行をされ、心境豊かな境地に到達された方たちです。
その一休さんに
九年まで座禅すること無益なれ
まことの時は 弥陀の一声
という句があります。達磨大師は9年間面壁で座禅されたといわれています。
桃栗三年 柿八年
達磨は九年 われ一生
という武者小路実篤の句も思い出されます。その禅宗の祖師の面壁九年の座禅を無益と一蹴し、「まことの時は 弥陀の一声」と喝破されたのです。「まことの時」とは自分が救われるその時でしょう。最後の最後には長年の座禅で得た利益ではなく、お念仏一つで助けられますという意味に受け止められましょう。自力の究極が念仏であった一例といえないでしょうか。このように考えますと、逆に一休さんにとって念仏への道のりが座禅であったわけで、長年の座禅こそ大いに必要であったのです。これも「無用の用」といえましょう。
また良寛さんには
良寛に辞世あるかと人問はば
南無阿弥陀仏というと答えよ
があります。やはり禅の究極はお念仏であったという事でしょう。
このように「無用の用」という老子の言葉から考えられることは、宗教的にも道徳的にも否定できるものは何も無いというのでは無いかと思います。まさに老子のいう「そのまま」であって「無為」とはこれをいうのであろうと思われます。